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記念式典スピーチ
明石 康(あかし・やすし)
杉原千畝生誕100年記念事業委員会委員長
【略歴】 1931年、秋田生まれ。日本予防外交センター会長。1957年、日本人国連職員第一号となる。国連事務次長、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)国連事務総長特別代表、旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表などを歴任。
杉原千畝生誕100年記念事業委員会を代表しまして、ご挨拶申し上げるのを大変に光栄に思っております。
わが国では今まで誰かの没後何年かを記念するという種類の式典が大変多くございました。最近におきましては、生誕してから何年かを祝うということの方が多くなっております。これは、私はすばらしいことだと思います。と言いますのは、人は誰でも死没いたしますので、そのことには何の不思議はございません。しかし、われわれのひとりひとりが生まれてきたという事実はひとつの奇跡であります。杉原千畝さんが100年前に生まれたということを、われわれは今日喜び、それを一緒に誇りに思いたいという気持ちがいたします。
第二次大戦中の1940年、ナチスドイツの迫害から行き場を失ってしまったユダヤ難民に対し、杉原さんは随分悩んだ末、ご自分の判断で通過ビザを発給して、約6000人の命を救いました。当時、リトアニアで領事代理をしておられたわけですけれども、外務省からの訓令に違反しても人道的見地に立って行動することを決意なさったわけであります。これは当時の日本人にとって決して生易しいことではなく、大変に勇気のいることであったと思います。
私たちは間もなく21世紀に入ります。いま幕を下ろそうとしている20世紀は、まことに血なまぐさい世紀でありました。戦争と迫害と偏見に満ちた100年でありました。国と国、民族と民族、宗教と宗教の間には不信感に溢れておりました。わが国においては、軍閥と国粋主義者が勢いを得た結果、多くの貴重な命が国内においてもアジア諸国においても、欧米においても失われたのは、みなさまご承知の通りであります。こうした20世紀という不寛容の精神に満ちた世紀を、われわれは再び繰り返してはいけないというように思います。
われわれの住んでいるこの日本という国は確かに島国であります。海によって世界から隔絶されております。しかし、いまやグローバル化の荒波は、ひたひたとこの島に押し寄せており、それに前向きに積極的に対応する以外の道は存在しないと考えます。この大きなチャレンジに対して否定的に反応し、外国人を「三国人」と呼んでみたり、やたら日本の優秀さについて威張り散らすというのは全く独り善がりの自己満足でありますし、ある意味ではコンプレックスの産物であるというように考えてもよろしいのではないかと思います。理念や価値の世界においてもグローバル化は、われわれが自分の民族性をきちんと保ちながらも地球的な見地に立ち、人間の尊厳を重んじ、人道というものを国家の上に置いて行動することを求めております。われわれは世界の文化が多様なものであり、それが相互の交流によって豊かになっていること、互いの接触と刺激と教育によってしか世界の人々は生きていく道がないということを知っております。
杉原千畝さんは、睥睨な国粋主義がはびこっていた時代にも、こうした地球的、人類的な観点が重要であるということをわれわれに身を以って示してくれた真の先覚者であったと思います。杉原さんの遺された偉大な足跡を偲び、感謝の念に満たされながら、人間の命がいっそう尊重され、各国民が平和に暮らし、偏見が克服されていく21世紀を念じて、私の挨拶にかえさせていただきたいと思います。
サムイル・マンスキー
杉原ビザ受給者
【略歴】 エメス礼拝堂記念公園理事長。1939年12月、ナチスの迫害から逃れるためにポーランドからリトアニアへ。ビザを受給後、ロシア、日本を経由し、米国へ到着。41年から米国シオニスト協会の会員となり、同協会の全国副理事長を務めるなど、シオニズム運動に深く関わる。現在、ユダヤ人地域関係協議会中東委員会委員、同協議会ホロコースト委員会委員、マサチューセッツ州ユダヤ人共同墓地協会副会長兼理事、米国シオニスト協会全国執行委員などを務める。
明石康委員長、上田卓三委員長代理、この式典を実現し、杉原さんの行った偉業に対して敬意を表する機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。上田さん、あなたのおっしゃった「種をまいたように収穫があるものだ」という言葉は、この場に非常にふさわしいものであります。
明石委員長、来賓の皆様、そして幸子夫人、私は大変恐縮した思いで皆様の前に立っておりますが、杉原さんのビザの受給者、その家族、そしてこれから生まれてくる世代を代表してお話をさせていただきたいと思います。
私たちは、人間の歴史において最も悲惨な時代を生き延びました。杉原さんは、上司からの命令にそむいて2,000通のビザを発給しました。私は、この行為の中で示された杉原さんの勇気と強い人道精神に大変感謝しております。残念ながら、私は直接杉原さんにお目にかかることはできませんでしたが、私の母と妹は、リトアニアでビザを受け取った時に杉原さんにお会いしています。後でわかったことですが、私がシオニスト運動に関わっているためソビエト軍が私を探していると父方の祖父が母に警告していたのです。とくに、ソビエトは、私がポーランドのリダからリトアニアへ避難する前に埋めたシオニストの旗を発見していました。そのため、母は、私が杉原さんに会いに行くのを止めたのです。幸子夫人と弘樹さんには、1989年に反差別連盟がボストンでホロコーストに関連した行事を開いたときに、お会いすることができました。
1940年8月9日、杉原領事が日本経由のキュラソー島行きの通過ビザを私の家族に発給してくださいました。そして、1941年2月24日、私たちは敦賀に到着しました。小さな家々が立ち並ぶ、花にあふれ、美しい町並みをした、非常に礼儀正しい人々の住むおとぎの国、これが敦賀の第一印象でした。私は、敦賀で初めてバナナを食べましたが、あんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてでした。その後、敦賀から神戸へ移動し、神戸で2ヶ月過ごしました。もし、アメリカ行きのビザが受給されるということがわかっていたら、日本での滞在をもっと楽しめたと思います。しかし、世界の情勢が悪化するにつれ、私たちの心配もつのっていきました。神戸の町を散歩したり、お店をのぞいたりして、ビザがおりるまでの時を過ごしました。私には、言葉の障壁がありました。日本人の中には、ロシア語やドイツ語を話される方がいらっしゃいましたが、私はいつもイディッシュ語でこたえていました。他の日本人とは手を使ってコミュニケーションをとりました。2ヵ月後の、1941年4月30日、私たちは自由へのパスポートを手にいれました。5月18日にワシントン州のシアトルに到着し、そこからボストンへ移動して父と合流しました。
ボストン到着後、移民のための夜間学校に入学し英語を学び始めました。昼間は働き、夜は学校に通ったのです。私はずっと大学に通いたいと思っていました。しかし、ポーランドにおいて、ユダヤ人の私が大学に行くということなど考えられないことでした。しかし、アメリカでは、ボストン大学に入学し、1948年に、経営学部を卒業することができたのです。また、1982年にボストン大学の教養学部大学院に入学し、翌年、卒業することができました。ポーランドでは、大学に通うということは私の夢でした。この夢が実現したのは、杉原さんの気高い行動のおかげなのです。
在学中の1946年に、妻のエステルと出会いましたが、2回デートした後、彼女にプロポーズしました。お互いのことをほとんど知らないのにプロポーズなんかして、妻は私の頭がどうかしてしまったのではないか思ったそうです。しかし、その年、私たちは結婚し、9月に結婚54周年を迎えました。私たちの間には、息子が3人いますが、2人は大学の教授で、1人は銀行の理事を務めています。3人とも結婚しており、2人ずつ子供がいます。つまり、私と妻には6人の孫がいるのです。私が妻と出会えたのも、私の子供たちがこのような成功を収めることができたのも、杉原さんの助けがあったからこそなのです。
私以外にも、杉原さんは私の弟と妹の命を救ってくれました。弟には、息子が2人と孫が3人います。妹には、息子が2人と娘が1人、そして7人の孫がいます。ですから、ヨーロッパにいた私の家族の命を救ってくれた結果、杉原さんは、8人の子供と16人の孫にも命を与えてくれたことになります。これは、自分自身よりも人道を優先させた一人の人間とった行動の結果なのです。
1980年代後半、私は、「神の助けと共に」という題名の本を執筆しました。この本は、出版されて、議会図書館にも寄贈されました。私は、この本の中で、ナチスに破壊されてしまった、私の生まれ育ったポーランドの町やアメリカでの経験について書きました。杉原さんは、私の本の大変重要な部分を占めています。私はこの本を、私の子ども、孫、そして将来の世代のために書きました。私たちユダヤ人に起こった出来事を知っておいて欲しいからです。
 『シンドラーのリスト』という映画が公開されて以来、多くの人が杉原さんのことを「日本のシンドラー」として考えるようになりました。しかし、2人の間には大きな違いがあると私は思います。2人の取った行動の結果は同じです。人命が救われたのです。しかし、シンドラー氏はユダヤ人を労働者として雇うことにより、経済的な利益を得たのです。杉原さんは、純粋に人道的な気持ちからユダヤ人の命を救ったのです。
 杉原さんへの感謝の気持ちは忘れたことがありませんでしたが、10年か11年程前に、日本駐在のボストン・グローブ誌の記者が杉原さんについて私にインタビューを行ったのがきっかけとなって、杉原さんについてもっと考えるようになりました。若い世代が1939年から1945年の間にヨーロッパで起こった出来事についてまったく知らないということに気づき、何かしなければいけないと思いました。若者たちが当時起こった出来事について知るということは非常に重要なことだからです。
 私は、アメリカに到着した当初から、ユダヤ人社会のさまざまな活動に関わってきました。マサチューセッツ州チェスナット・ヒルにあるエメス寺院のメンバーになってから42年たちますが、寺院の役員として、ホロコーストの記念碑を建てることを提案しました。追憶の碑と呼ばれるこの記念碑には、エメス寺院のメンバーの家族が虐殺される前に住んでいた町や都市の名前が刻まれています。すべての市町村が、1918年から1939年当時の国境で描かれた地図の上に示され、記録されています。
 追憶の碑が完成した後、杉原さんの記念碑の建設にとりかかりました。この碑は、御影石でできており、今年の初めに完成しましたが、20世紀のヨーロッパにおける最も暗澹とした時代にさし込んだ一条の希望の光を記憶するためのものです。記念碑には、「杉原千畝 在リトアニア日本国領事 激動の1939−1941年の間に在勤 杉原氏により給付された二千あまりのビザは、六千のユダヤ人の命を救い、後に三世代、三万六千の命の源となる」という碑文が刻まれています。
また、チュレッツ先生が聖書から選んでくださった、「獅子のような心を持つ力ある者」(サムエル記II.17:10)という一節も刻まれています。碑文はすべて、英語、ヘブライ語、日本語で表記されています。また、杉原さんの顔も刻み込まれています。この記念碑は、日本の灯篭に似せてつくった照明装置をそなえた日本庭園に建てられています。玉石が敷き詰められた小道が追憶の碑まで続き、そこから石畳の道を行くと杉原さんの記念碑にたどり着きます。
 2000年の4月30日、エメス寺院の敷地内で、杉原さんの記念碑の献呈式がおこなわれました。日本人とユダヤ人コミュニティから約600人が参加しました。さかまきのりこさんの指揮するボストンの日本人の合唱団とゲンナジー・コニコフが指揮するエメス寺院の聖歌隊、シライ・エメスが共演し、日本語と英語とヘブライ語の歌を歌ったのです。また、昭和ボストン校の生徒による千羽鶴の贈呈式も行われました。この場をお借りして、ボストン小児科病院の研究員である、さかもとまさ氏と、在ボストン日本領事館のご助力に感謝申し上げたいと思います。
 この日の出来事は、ブランダイズ大学のサウール・トスター名誉教授が私に送って下さった手紙が最も的確に表現していると思います。スター教授はこうおっしゃいました。「マンスキーさん、先日の日曜日、ホロコースト記念日の式典をかねて行われた、杉原さんの偉業を称える記念碑の献呈式は、非常に感動的なものでした。聖歌隊と日本人合唱団が共演したこの式典は、杉原さんを顕彰するものとしてだけでなく、和解をも象徴していました。太平洋戦争に従軍した元兵士として、そう断言できます。」
 最後になりましたが、私たちユダヤ民族の記憶は、はるか歴史をさかのぼります。「記憶にとどめよ」という言葉が聖書には600回以上も出てきます。エジプトで奴隷であったことを私たちは決して忘れません。エジプトからの脱出を決して忘れません。バビロニア人とローマ人によって私たちの神殿が破壊されたことを決して忘れません。第二神殿が破壊された後のユダの地からの追放を決して忘れません。2000年に渡って流浪の身であったことを決して忘れません。スペイン、ポルトガル、そしてヨーロッパの他の国々から追放されたことを決して忘れません。使い捨てにされた民族であったことを私たちは決して忘れません。そして、ホロコーストを決して、決して、決して忘れません。
しかし、私たちユダヤ人が、モーゼ、キリスト、カール・マルクス、フロイド、アインシュタインを通じて世界に貢献したことも決して忘れません。1948年にイスラエルが建国され、使い捨てにされる民族でなくなった日のことを決して忘れません。エンテベ事件を決して忘れません。そして、杉原千畝という人物のことを決して忘れません。杉原さんの功績はこれからも永遠に受け継がれていくのです。ありがとうございました。
ネイサン・ルーウィン
杉原ビザ受給者

【略歴】 弁護士。1936年にポーランドで生まれ、5歳の時に米国へ渡る。ハーバード大学ロースクールを卒業後、連邦政府職員に。ケネディ、ジョンソン政権時代には、司法省の公民権局の法務次官補を務めた。1991年から1997年までユダヤ人法律問題専門家国際協会米国支部の会長を務め、現在は同協会の名誉会長。また、「法と政治問題に関する米国ユダヤ人委員会」の創設者の一人で20年以上に渡って同委員会の副委員長を務めている。
杉原夫人、委員会の皆様、そしてご来賓の皆様、日本語で挨拶をできないのが残念です。60年前、日本にいた当時、私の日本語は最高でしたが、今はもうできません。さて、お話しをいたします。父が密航の仲介業者にお金を払って、私たち家族が国を出たのは1939年9月、私が3才半の時でした。漆黒の闇の中、私たちは森を抜けてポーランドとリトアニアの国境を越えました。その恐ろしい夜のことは覚えていませんが、父は私を腕に抱いて運んだそうです。後年、父からおそわったのですが、「少しでも音をたてたら、木の影に隠れている狼たちがすぐに飛びかかってくるのだよ。だから、絶対に静かにしていなくてはいけない」と、私を脅したそうです。さらに、「一番恐かったのは、リュックサックに入れていた鍋が低く垂れた枝にあたってガランと大きな音をたてた時だった」と母はつけ加えました。
私たちがまず目指したのは、当時独立国家であったリトアニア共和国のヴィルナでした。そこはナチスから逃れてきたポーランド系ユダヤ人にとって天国でした。ヴィルナに到着した後、ドイツのポーランド進攻を以前から予測していた母は、それを案じて一刻も早くヨーロッパから脱出する方法を探し出しました。
両親は、私が生まれたポーランド第二の都市ウージでの非常に快適で自由な生活をあきらめました。父は30代の初めに、ウージの人口の多数を占めていた正統派ユダヤ教徒の人々に支持されて、市会議員に選出されました。議員の中では一番年令が若かったそうです。父は、彼の父、すなわち私の祖父のラビ・アーロン・ルーウィンの足跡をたどる運命にありました。祖父はレッツォウ市の偉いラビで、ポーランドの下院議員に2度選ばれました。母方の祖父はアムステルダムで成功をおさめた事業家で、ウージで繊維工場を所有し、新しくできた義理の息子、すなわち私の父に経営を手伝わせました。そのため、私は生後3年半をこのポーランドの大都市で過ごしました。父は、工場経営と(これにはほとんど耐えられなかったようですが)市会議員の二足のわらじを履いていました。市議会では、ポーランドのユダヤ人を侮辱するようなことをウージ市議会の公式記録に残したポーランドで最も邪悪な反ユダヤ主義者の人々と戦わなくてはなりませんでした。
1937年9月1日、ヒットラー軍が電撃的にドイツからポーランドに進攻してきた時、母の実家の家族全員は私たちと一緒にロッツにいました。著名なオランダ市民である母の父はとても勇敢な人でした。祖父はすぐにワルシャワからアムステルダム行きの飛行機を予約し、向こうにおいてきた宝石や貴重品を取りに行こうとしました。それがあれば、私たち全員ナチスから逃れることができると思ったからです。しかし、それを最後に母は祖父と再び会うことはありませんでした。アムステルダムの親戚から聞いた話では、ポーランドにいる私たちと合流できなくなった祖父は、コートの中にダイアモンドを縫いこみ、国境を越えてスイスに入ろうとしました。しかしスイス国境で捕まり、ナチ当局へ引き渡され、最終的にはアウシュビッツ・ビルケナウのガス室から死体焼却場へと送られたそうです。
母はオランダ市民としてアムステルダムで育てられました。当時、フェミニスト以前の時代には、結婚すれば女性は法的に夫の国籍に移されました。そのため、母は国籍上ポーランド人となり、私を生みました。母方の祖父がオランダに行った後、母とともにロッツに残ったのは、オランダ市民だった祖母と叔父(母の弟)でした。二人は私たちの真夜中の国境越えに加わり、ヴィルナで一緒に落ち着きました。
ヴィルナに来るやいなや、母と母の弟のレオはアメリカかパレスチナ、あるいはどこか他の国に行く方法を探し始めました。レオはまだ20代でした。オランダ市民はアジアあるいは南アメリカのオランダ植民地に上陸できる権利があることが分かりました。オランダ領東インド(現在のインドネシア)はオランダ市民に門戸を開けていましたし、オランダ・アンチル諸島キュラソーやベネズエラとブラジルの間にあるオランダ領スリナムもそうでした。ヴィルナからモスクワに行き、そこからシベリア横断鉄道でウラジオストックに渡ることができます。ウラジオストックから船で日本に行けば、そこからオランダ領東インド諸島でもオランダ領西インド諸島でも行くことができます。
しかし、母はもはやオランダ国籍ではありませんでした。もちろん、父も私もそうではありませんでした。でも母はあきらめずに粘りました。リガに駐在していたオランダ大使のL.P.J.ディデッカーや、ユダヤ人の間ではコブノで知られていたカウナスにいる若いオランダ名誉領事と連絡をとりました。オランダ領事は ヤン・ズヴァルテンディックという人で、彼もまた、本日の第一の受賞者である杉原千畝氏と同じく、1940年から1941年にかけ、数千人のユダヤ人がリトアニアから日本に脱出するのを助けました。
ディデッカー大使が母に宛てた返事は、「オランダ市民はオランダ領東インド諸島に上陸する法的権利をもっているが、父や私、さらにはその時すでにポーランド国籍となっていた母のように、ポーランド人には植民地へのビザは発給されない」というものでした。キュラソーやスリナム上陸のビザについては、ディデッカー大使は、それらオランダ植民地への上陸にはビザを必要としないので、彼の権限でそれを助けることはできないと言いました。現地総督としてキュラソーに駐在していたオランダ政府高官が、上陸を許可するかしないかの全権を委ねられていました。
ズヴァルテンディック領事と相談した後、母と叔父は素晴らしい名案を思いつきました。母はオランダ大使に手紙を書き、彼女のポーランドのパスポートに“スリナム、キュラソーおよびその他南アメリカでオランダが所有する領土への上陸にビザは要求されない”という記述を裏書きしてくれるかどうかを問い合わせました。1940年7月11日、ディデッカー大使はその通りのことをしてくれました。彼は母のポーランド・パスポートに、「外国人が、スリナム、キュラソーおよびその他南アメリカでオランダが所有する領土に上陸するには、ビザは要求されない」という文言をフランス語で裏書きしてくれたのです。
一方、私たちがヴィルナにいた頃、ロシアがリトアニアを占領しました。ロシア政府はポーランドをもはや独立国と見なしていなかったため、私の両親のポーランド・パスポートは用をなさなくなりました。その代わり父は、「ライディマス」と呼ばれるラトビアの通行証を、自分自身と母と私のために発行してもらいました。その時、無効となった母のポーランド・パスポートが大使の裏書きとともに返送されてきました。母は、そのパスポートと「ライディマス」をズヴァルテンディック領事に届け、パスポートにあるディデッカーの裏書きをラトビアの通行証にそっくりそのまま複写してほしいと願い出ました。そしてそれが認められ、リガのオランダ大使による宣言に代わって、カウナスの領事による宣言が裏書きされました。これが手書きによるその宣言のコピーです。オリジナルは家族の宝として家においてあります。ズヴァルテンディックの裏書きの日付は1940年7月22日です。それより以前の日付の裏書きは見たことがありません。数日後、人々が長蛇の列を作り始めたため、この宣言はゴム印にされました。杉原ビザをもらった旅券の大半は、そのゴム印の裏書きがついています。
そして、ここで誉れ高い杉原千畝氏が登場します。子どもの頃、私は、杉原領事はヤン・ズヴァルテンディックの友人で、パスポートにオランダの裏書きのあるユダヤ人には通過ビザを発給するという申し合わせが二人の間にあったと聞かされたものでした。ズヴァルテンディック氏の息子さんは(この方と私はずっと文通をしてきました)、「父は杉原領事のことはまったく知らなかったと思う」と言いました。しかし、私は子どもの頃に聞かされた話を信じています。多分、二人はどこかの外交官のパーティーで会っていたのではないでしょうか。いずれにしろ、ヤン・ズヴァルテンディック氏が亡くなる少し前の1963年に書いた手紙には、「カウナスの日本領事は、オランダ領西インド諸島に関する私の注釈が記載されたパスポートをもっている人々に、まったく自発的に通過ビザを発給していた」と記されています。さて、私にとって、「まったく自発的に」というこの言葉は、ズヴァルテンディック氏が手紙の中で自分がやったことも細かく思い出せないと控えめに言っていたことを考えあわせても、彼は杉原領事を何らかの形で知っていたということを示しているように思えます。
私たちの旅券には、優美な日本文字の書体で書かれた1940年7月26日付けの杉原ビザがあります。杉原領事が作成したリストは、数年前、ボストン大学のヒル・レビン教授が日本の外務省で発見しました。リストには、私の祖母が16番、父は17番、叔父が18番の番号で載っていました。祖母と叔父の二人はオランダ国籍として、父の旅券には母と私が一緒に記載されていて、私たちはポーランド国籍とされていました。キュラソー・ビザを一番最初に得たと一部では言われているネイサン・ガトワースというオランダ国籍の人は、そのリストでは1264番で、発給日は1940年8月6日となっていました。杉原夫人の自叙伝は次のような言葉で始まっています。
「1940年7月27日の朝に始まった一連の出来事は、今でも鮮明にはっきりと私の記憶に刻まれています」
彼女は、その日、7月27日、驚いたことに、100人から200人ほどのユダヤ人がカウナスの日本領事館前でビザを求めて立っていたと書いています。それは、杉原領事が私たち家族にビザを発給してくれた日の翌日のことでした。母は、「ビザを手に入れたことをヴィルナの友人たちに言ったのよ」と私に話してくれたことを覚えています。後年イスラエルの重要なポストに就いたバルハフティック大臣を含め、ビザを受けた人々は、次の日にヴィルナからカウナスへと旅立ちました。
母は、私たちの命を救ってくれた日本領事に直接会ったという話はまったくしませんでした。父もしたことはありませんでした。杉原リストに私の祖母、父、叔父のレオの名前が発見されたことで、私は、母のポーランド・パスポートにあるディデッカーの裏書きなど一切合財の渡航書類をもってカウナスへ行き、ズヴァルテンディック領事と杉原領事を訪ねるという大仕事をしたのは叔父のレオだったのではないかと推測しています。多分叔父は、叔父の母親の分、姉の分、そして自分の分と続けて集団でビザを申請したのではないでしょうか。
ソ連の共産政府が杉原ビザを持っている人々にソ連出国を認めたことは、杉原領事および日本に対してソ連が敬意を払っていたことの証に他なりません。私たちはヴィルナからモスクワに行き、モスクワからシベリア大陸横断鉄道で2週間かけてウラジオストックに着き、船に乗り換え、最後に神戸で日本人に暖かく迎え入れられました。非常に幸運なことに、父の名が、非移民扱いでアメリカ入国を認めてほしいラビの一人としてリストアップされ、在米の有力なユダヤ人組織がその要望書をアメリカ政府に提出しました。父と私が1941年の春にまずアメリカに渡りました。アメリカ当局は叔父や祖母にも同様にやさしくはありませんでした。母は祖母と叔父のビザを取るために数ヵ月日本に残り、何とか努力をしましたが、二人のアメリカ入国は認められませんでした。結局、母は、二人に神戸でお別れをして日本を発ちました。母がおじを見たのはそれが最後となりました。
日本が1941年12月に戦争に突入する前、祖母と叔父はオランダ領東インドに渡りました。叔父のレオはオランダ軍に入隊し、フローレス海の沖合いで戦死しました。祖父母の中では、母方の祖母だけが唯一人私が覚えている人であり、唯一人ホロコーストを生き抜いた人でした。戦争が終ってから5年ほど、祖母は私たちと一緒に暮しました。
尊敬されたレッツォウのラビである父方の祖父は、ルヴォフの町からロシア軍が撤退し、ドイツ軍が進攻してきた1941年6月30日、むごたらしく殺されました。未亡人となった祖母は数ヵ月間アパートに身を潜めましたが、最後には見つかり、祖父の唯一人の妹とその人の若い娘と共にベルゼックの死の収容所に送られました。
ほぼ2000年前の人で、ユダヤ教口伝法典の基本解説であるミシュナを編纂したラビ・ユダ師は、人間にはたった1時間の善行で永遠の報いを受ける人もいれば、同じ報いを受けるために一生苦労しなくてはならない人もいると言いました。報いも称賛も期待することなく、正しいことを為しただけで(事実、そのやさしさが何らかの効果をもたらしたかどうか、長年知ることもなく)、杉原領事は永遠の報いを得ました。彼の優美な日本語書体の旅券をもってヨーロッパを逃れた数千人のユダヤ人だけではなく、それらサバイバーの子孫である数万の人々にとって、杉原氏は命の恩人です。また彼は、ユダヤ教の学校として有名な「ミラ・ヤシヴァ」の存続の恩人でもあります。その学校の学生と教師も日本に逃れ、戦争中は上海で過ごし、戦後アメリカに渡りました。
杉原千畝は真の英雄です。エルサレムに建てられたホロコースト博物館の正義の異邦人の名簿に第一に名を連ねられました。東京の外務省は通過ビザの発給を認めなかっただけではなく、杉原氏に対してビザを発給するなという訓令を何度も電報で送りました。杉原千畝はそれら訓令を無視し、カウナスを離れる列車に乗る直前まで命を救う努力を続けました。
この慈悲深い行為をどう説明できるでしょう?ヘブライ語には次のような言い回しがあります。 「kishmon ken hu(名は体を表わす)」。日本語で杉原千畝という名前がどのような意味をもっているのか私は知りませんが、その読みをヘブライ語で見れば大変驚かされます。「チウネ」はヘブライ語では「hiyuni」と発音できますが、その意味は「生を授ける」です。ヘブライ語の大家であるラビ・ユダ・ハレビ師は、「hakoach hachiyuni(生を授ける力)」について述べています。
また、スギハラという名前の発音で、「hara」は身ごもるという意味になります。女家長のサラは、「Hinach hara veyaladet ben(あなたは妊娠している。息子を産むだろう)」と告げられました。そして 「sugi」は、アラム語あるいはヘブライ語で「サブジェクト(対象)」という意味です。したがって、Hiyuni (Chiune) Sugiharaは「受胎の対象」、すなわち生を授ける、実を結ぶ(代々にわたる継続性)という意味になります。
もしかしたら死と崩壊に直面しなければならなかった数千の人々に、生を授け、継続と多産を与えた人にとって、まさに相応しい名前ではありませんか。
今、私には男と女の孫が一人づついます。男の子の孫のギドン・モシェ・ルーウィン・ハルブフィンガーと女の子のアエレット・トーヴァ・ルーウィン・ハルブフィンガーは、杉原領事とズヴァルテンディック領事の思いやりと勇気のおかげで、今日この世界に生を受けています。ギドン・モシェは4年前、ユダヤ暦の4月16日に生まれました。ユダヤ暦のカレンダーを調べて発見したのですが、ヤン・ズヴァルテンディックが1枚の紙にオランダの裏書きを記して、それが4日後に杉原領事に渡され、ギドンの祖父と曽祖父に命のビザが許可されることになったのが、60年前のユダヤ暦の4月16日だったのです。
杉原千畝氏のご家族に、そして杉原氏の思い出として、杉原領事に命の授かり物をいただかなければ決してアメリカで生を受けることのなかった私の家族(娘たち、息子そして孫たち)の感謝と、私自身の感謝をここに捧げます。そして、杉原千畝氏がいなければ、私に出会うことがなかった私の妻の感謝もここに捧げます。杉原夫人およびご子息、お孫様たちの、末永いご健康とご多幸をお祈り申しあげます。古くからのユダヤの言葉(「命に(L'Chaim)」)をご家族の皆様にお贈りします。
トーマス・ホムバーガー
反差別連盟(ADL)全国執行委員会議長
【略歴】 不動産関係を専門とする弁護士。コロンビア大学ロー・スクール卒業。反差別連盟シカゴ委員会委員長、全国副委員長を経て、2000年より現職。反差別連盟財団の理事を兼任。
反差別連盟として、また、反差別連盟全国執行委員会議長として、杉原千畝さんのように高潔で人道精神に溢れた方を顕彰する式典に参加させていただいたことをこの上なく光栄に思います。
 ホロコーストという非人道的な行為が行われていた中にあって、杉原さんの示した人道精神は光輝くものです。困難な状況にありながらも杉原さんは幸運でもありました。それは、正しいことをなそうとする杉原さんの決断に幸子夫人も関わっていたことです。杉原夫妻は、自分たちの身に降りかかるであろう危険を十分承知していました。この選択によって長い時間をかけて築き上げてきたキャリアと生活を失うであろうということを知っていたのです。
 この式典は、反差別連盟にとって非常に意義深いものです。なぜなら、60年あまり前に杉原夫妻を決意させたものこそ、私たちの掲げる使命だからです。反差別連盟はユダヤ人の組織ですが、すべての人に対する嫌悪、憎悪、偏見と闘うことを目的として87年前に設立されました。反差別連盟の創設者は、私たちユダヤ人が何世紀にも渡って経験してきた嫌悪、憎悪、偏見から身を守る最良の方法は、すべての人に対する嫌悪、憎悪、偏見と闘うことであるということに気づきました。反差別連盟は、これを使命として、アメリカ国内だけでなく世界中において長年、活動を行ってきました。
私たちの目的を達成するための手段はいろいろあります。その代表的なのが、司法と立法の力を用いて、偏見や憎悪に満ちた人と闘うことです。反差別連盟はこの方法を用いてアメリカにおいて大きな成果を収めてきました。また、同じ目的を掲げて闘っている同胞の力となれるように、この方法を世界中に広めてきました。
しかし、闘う手段は、他にもたくさんあります。教育こそが、嫌悪、憎悪、偏見と闘う最も効果的な方法であるということに私たちは気づきました。子どもたちは憎しみを知らずに生まれてきます。憎悪という感情は、後から身につけるものなのです。子どもたちは、精神が形作られていく段階で人を憎むことを教えられるのです。杉原さんは、武士道の気高い精神に従って行動し、その結果、英雄となりました。違いを尊重し受け入れることを子どもたちに教えることは可能なのです。成長していく過程で、子どもたちの心の中にこのことをしっかりと根付かせることができれば、杉原夫妻が立ち向かわなければならなかった憎悪はなくなるでしょう。教育こそが、嫌悪、憎悪、偏見から将来の世代を守る確実な手段なのです。教育のもたらす逆効果を目のあたりにした時、教育というものがいかに大切なものであるかということがわかります。ナチスは、ドイツ人の子どもたちに人を憎むことを教えました。その結果、杉原夫妻が正しいことを行うためにいままで築き上げてきたものを失わなければならないというような状況を作り出したのです。同じようなことが現在でも行われています。パレスチナの子どもたちが使用する教科書は、イスラエルに対する憎しみを教えています。憎しみを教えることをやめなくては、将来の世代は間違いなく憎悪に満ちた世代となり、苦しみや流血の惨事が必ず引き起こされるのです。
反差別連盟では、「ワールド・オブ・ディファレンス」と呼ばれる学習方法に基づいた、様々な教育プログラムを使用しています。このプログラムでは、違いを尊重し受け入れるということを生徒たちに教えるための訓練を教師に行います。アメリカでは、すでに15万人以上の教師がこのプログラムに参加し、その結果、1,500万人以上の生徒がこの学習方法を学びました。現在、私たちの学習方法は、世界中の教育に携わっている人たちの間で広まりつつありますが、それぞれの国の状況に応じてうまく活用していただけることを願っております。大変喜ばしいことに、日本は、私たちのプログラムを採用している国の一つであります。実際、反差別連盟と大阪の教育専門家が協力して、「ワールド・オブ・ディファレンス」プログラムを実行しています。お互いに協力しあえば、大きな変化をもたらすことができると私たちは信じています。
反差別連盟では、アメリカのいくつかの都市において、杉原さんを称える作文コンテストを実施しています。杉原さんの名前を冠するこのコンテストでは、参加者の学生は、杉原夫妻が60年前に決断を行った時に直面した道義的なジレンマについて考え、自分たちの生活と関連付けて作文を書くことを求められます。お聞きになったように、今年の作文コンテストの受賞者が本日の式典に参加しております。サン・フランシスコ出身のエミール・ブロック、ボストン出身のアリソン・ヴオナ、ニューヨーク出身のニコラス・シェールの三名です。この式典は、私や私とともに式典に参加している妻のルイーズを含む私の家族にとって大きな意味を持っています。
1938年、私の家族と、父方および母方の親戚は全員、オーストリアのウィーンを中心に、中央ヨーロッパに住んでいました。ナチスがオーストリアにやってきた時、このうちの何名かは、うまくアメリカに逃れることができました。私の父もゲシュタポに連行されそうになりましたが、逃げることができました。実は、メイドに救われたのです。彼女は、父にとっての「杉原さん」だったのです。ユダヤ人でなかったにもかかわらず、彼女はゲシュタポがやってきた時に、自らの危険も顧みないで大変激しく抵抗しました。その結果、ゲシュタポはまた戻ってくると捨て台詞を残して去っていったのです。父がその後すぐに逃げたのは言うまでも有りません。私の祖父は、1938年11月、「水晶の夜」事件の翌朝、ウィーンで捕らえられ、ダッハウにある悪名高きナチスの強制収容所に送られました。しかし、勇気ある私の祖母がウィーン市長に助けを求めたおかげで、その後、釈放されました。市長は、祖父が第一次世界大戦中、オーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍していた時の戦友でしたが、ダッハウの司令官に対して祖父の戦功を認め、釈放するよう説得したのです。そして、スーツケースに詰められる分だけの荷物を持って、2、3日中にオーストリアを去ることを条件に、祖父は釈放されました。アメリカ行きのビザがおりるまでの間、二人は、心やさしいイタリア人の下に身を寄せることができました。私の肉親や何人かの親戚は、運がよかったのです。生き延びることができたのですから。ヨーロッパに取り残された親戚は、全員亡くなりました。杉原夫妻は、憎悪の犠牲者のために勇敢に戦いました。勇気ある行動をとることによって憎悪と戦ったのです。
この式典に参加するということは、もう一つ、私にとって大きな意味があります。幸運にもナチスから逃れることができた親族の一人に、私の大おじがいます。彼は大おばと共にアジアに逃れましたが、1940年、一人で日本に到着しました。大おばは、日本に来る前に上海で亡くなりました。大おじは、ウィーンが安全な場所であると勘違いして、彼の息子と娘を残してきましたが、後になって間違いに気づき、日本に二人を呼び寄せました。そして、1940年から47年まで日本で避難生活を送った後、アメリカに移住しました。大おじの家族が生き延びることができたのは、日本人の皆さんが暖かく迎えてくれたおかげです。
杉原さん以外の外交官の皆さんとそのご家族の皆さんにも祝辞を述べさせていただきたいと思います。これらの外交官の勇気ある行為のおかげで多くの命が救われました。誰もが立ち上がろうとしなかった時に、これらの人たちは正しいことを行ったのです。この式典にご招待していただいたこと、コンテストの受賞者が式典に参加するお手伝いをしていただいたことに関して、明石さんと上田さんにお礼を述べたいと思います。また、本日この式典に参加している、反差別連盟のエド・アルスター教育副部長の名前をあげさせていただきたいと思います。反差別連盟がこの式典に参加することができたのは、アルスター氏のたゆまない努力のおかげです。最後に、反差別連盟のフォックスマン全国委員長からの祝辞を幸子夫人と今日ここで顕彰されている外交官の方々にささげたいと思います。本来であれば、フォックスマン氏は、本日この場に来ているはずでしたが、最近受けた心臓手術のため、式典に参加することができませんでした。
マンスキーさんがおっしゃっていたように、杉原さんに関する本の中で、杉原さんは、「日本のシンドラー」と呼ばれることがよくあります。マンスキーさん、私はあなたと同意見です。私の出身地であるシカゴにレオ・メラメッドさんという方がいます。メラメッドさんは、杉原ビザの受給者で、アメリカの金融界において大きな影響力を持つ方です。幸子夫人には、個人的にお伝えしましたが、メラメッドさんから、祝辞と式典に出席できないことへの謝罪をお伝えするよう頼まれております。さて、メラメッドさんは、マンスキーさんと同じく、シンドラー氏は何千人もの命を救ったが、それと同時にたくさんのお金を手にしたと考えています。しかし、杉原夫妻は、何も手にしませんでした。二人が得たものは、正しいことを行い、それにより変化をもたらしたのだという大きな満足だけだったのです。事実、杉原さんと杉原さんの家族は、仕事、財産、長い間守ってきた地位を失ってしまったのです。
イディッシュ語に「メンシェ」という言葉があります。一言で訳すのは大変難しいのですが、幸子夫人のためになんとか訳をつけてみます。「メンシェ」とは、高潔で、やさしく、無欲で、真の人道愛にあふれた人をさします。杉原さんは、まさにこの言葉が具現化された人物なのです。ありがとうございました。
フロイド・モリ
日系アメリカ人連盟会長
【略歴】 ユタ州のマーレイ出身で、両親は日本からの移民。ブリガム・ヤング大学で修士号(経済学)を取得後、カリフォルニア州に移り、10年間に渡って大学で教鞭を取る。カリフォルニア州プレザントン市の市会議員、市長を経た後、州議会議員に当選し6年間務める。その後、ユタ州に戻り、モリ・インターナショナル社を設立し、国際ビジネス・コンサルタントとして活躍中。また、ユタ州知事のアジア諮問委員会委員も務める。
幸子夫人、杉原千畝さんのご家族と友人の皆様、明石委員長、来賓の皆様、そして本日ご出席の皆様、日系アメリカ人連盟(JACL)を代表してこの式典に参加できたことを大変光栄に思っております。杉原さんの生き方とJACLの掲げる目標には、多くの共通点があります。
 なぜJACLが杉原さんの業績に関心を持っているのかについて説明するに当たって、私の半生について少しお話をさせていただきたいと思います。
私は日系二世です。皆様は、私が日本語でお話しすることを期待されるかもしれませんが、私は、正式な日本語教育を受けたことがございませんので、本日は、英語でお話をさせていただきたいと思います。私の両親は鹿児島県出身です。父は、1900年代初めにアメリカに移住しました。父の家族は大変貧しかったため、長男であった父がアメリカへ渡ってお金を稼ぎ、日本にいる家族を養う必要がありました。貧しく、地位もなかった父は懸命に働きました。そして、土地や家を手に入れ、農場を開拓し、8人の子どもを育て上げたのです。アメリカ西部のロッキー山脈の麓の農地で、父や他の日本人の移民たちは、厳しい気候だけでなく、西部の独立心に富んだアメリカ人が皮膚の色の違う外国人に対してとった冷たい態度にも立ち向かわなければなりませんでした。勤勉な日本人開拓者の経済的成功に対する嫉妬は、しばしば憎悪、暴力、拒絶に姿を変えました。
日本人の移民が経験したこの憎悪と拒絶がJACL誕生のきっかけとなりました。JACLが創設されたのは1920年代後半ですが、アジア系マイノリティのために組織された初めての団体です。アメリカにおけるアジア系アメリカ人の市民権擁護団体としては、もっとも古く、最大の組織です。全米に約115の支部ありますが、東京にも日本支部が置かれています。JACLは、日系人社会が直面する不正義や不公平を政府や社会に伝える役目を果たしてきました。JACLは、日系人の擁護団体でありますが、日系人や他のマイノリティグループが、多数派に約束されている権利と同じ権利を享受できるように、さまざまな法律の制定に努力しています。 
第二次世界大戦は日系アメリカ人にとって非常につらい時代でした。集団ヒステリーがアメリカ中に巻き起こり、日系人に対する恐怖と憎悪から、西海岸に住む12万人もの日系人がアメリカの西部と南部の荒れ果てた地に設けられた収容所に強制移動させられました。アメリカ合衆国憲法の理念は踏みにじられ、基本的人権と市民権が侵害されたのです。憲法で守られている「適法手続き」は無視されました。そして、このような不正義が行われる中、収容所に暮らす多くの日系人が、アメリカへの忠誠心を証明するために兵役に志願していったのです。
戦後、戦時中に日系人が受けた不当な扱いに対しての賠償を求める法廷での闘いが繰り広げられましたが、そのほとんどは、良い結果を得られませんでした。そこで、日系人社会は、戦時中に失ったものを取り戻す作業にとりかかったのです。
1970年代、JACLは、威信と名誉を日系人社会に取り戻す運動を組織することを決意しました。戦時中に日系人が経験した不当な強制移動に対する政府からの「賠償」と謝罪を求める運動を開始したのです。10年以上にもわたる個人のたゆまない努力、そしてJACLや支援団体によるロビー活動の結果、1988年に連邦議会は、市民自由権法を通過させました。このとき、支援団体として真っ先に名乗りをあげてくれた組織の多くが、ユダヤ人の組織でした。この法律は、強制収容された日系人の全生存者に賠償を約束しました。さらに重要なことに、政府が過去の過ちを認め、強制収容された人びとに謝罪を行ったことなのです。これは、アメリカ合衆国史上初めてのことでした。現在もJACLは、世界中のすべての人びとに基本的人権と市民権が保障されるよう監視を続けています。
戦時中のヨーロッパにおいて、杉原さんは何千人というユダヤ人のために命のビザを発給しましたが、基本的人権とは何であるのかということを真に理解していたからこそ、このような行動をとったのです。杉原さんの取った勇気ある行為の中で示された思いやりの精神は、日本の外務省では、前代未聞のことでした。ユダヤ人は、日本の同盟国から軽蔑され、嫌悪されていました。しかし、杉原さんは、人種や信条にかかわらず、一人の人間の価値を認めたのです。杉原さんは、真の人道主義者であります。政府は、杉原さんを無名の存在で終わらせるのでなく、模範となる人物としてもっと称えなければなりません。
日系人が強制収容所の中で自由と権利を求めて闘い、そして死んでいったように、杉原さんは、権威ある外交官の地位を失うことも、名誉を失うことも覚悟の上で、何千というユダヤ人に自由と権利を与えたのです。杉原さんにとって、人道というものは、自身の快適な生活、栄誉、名声よりもはるかに重要なものだったのです。
ここで、皆様にぜひ知っておいていただきたいことがあります。アメリカ政府は、過去の過ちを認め、日系人に謝罪しましたが、同じように、最近、日本政府も杉原さんに対して冷淡な態度をとったこと、杉原さんの勇気ある行動を評価しなかったことを認めました。河野外務大臣が杉原家に対して謝罪を行ったということは、とくに記念すべきことであります。日本政府は、一歩踏み込んで、杉原さんの名前と業績を称えたのです。
JACLは、杉原さんと杉原さんの功績を大変誇りに思っております。杉原さんの示した模範は杉原さんの名とともに若い世代に受け継がれていくでしょう。JACLの総会は2年ごとに開かれますが、1988年の総会で、杉原さんの勇気ある行動を称え、外交官として何千人というユダヤ人の命を救ったことにより失った名誉を回復する運動を応援するための決議文を採択しました。
JACLは、日本政府が人権を全世界に広めていくために勇気ある一歩を踏み出したことを評価します。グローバル化された現代社会では、私たちは一人ひとりの人間的価値を認めあう必要があります。いまや、日本とアメリカは、政治・経済の分野で世界的なリーダーとなりましたが、人権の分野においても世界のリーダーとなるよう努力する必要があります。私たちは、未だ偏見と過激思想が何百万人という人々の生活を支配しているこの現実において、模範とならなければなりません。この式典は、私たちがこれからもより良い人間関係を作っていくための努力を続けていくという決意を表しているのです。
本日の式典の開催にご尽力されたすべての皆様に感謝の意を表したいと思います。この式典は、杉原さんが私たちに残された輝かしい功績を未来へ受け継いでいくことの重要性をさし示してくれました。私は、人道主義を称えるこの式典に参加できたことに大変感謝いたしております。
ここで、1988年7月3日にJACLの全国評議会が採択した決議案の原文を幸子夫人にお渡ししたいと思います。この決議案は、JACLのソルトレイク・シティー支部が提案したもので、杉原さんの業績を称え、杉原さんの勇気ある行為がきちんと評価されるための運動を後押しするものです。私の記憶する限りでは、JACLがアメリカ国民以外を表彰したのは、杉原さんが初めてであり、杉原さんだけであります。JACLは、杉原さんを賞賛しており、この式典に参加させていただいたことに大変感謝いたしております。ありがとうございました。
エイブラハム・クーパー
サイモン・ウィーゼンタール・センター副理事長

【略歴】 ユダヤ教牧師。1950年、ニューヨーク生まれ。イェシバ大学卒業。世界各地でユダヤ人問題や人権問題に取り組む。20年以上に渡って、反ユダヤ主義、ナチス戦犯、インターネット上の極右グループやヘイト・クライム問題など、サイモン・ウィーゼンタール・センターの取り組みを指揮してきた。1999年、イェシバ大学よりバーナード・レベル地域奉仕リーダーシップ記念賞を受賞。
明石委員長、上田委員長代理、クムリーン・スウェーデン大使、イスラエル大使館参事官、ご列席下さいました外交官の皆様、杉原ビザ受給者代表のマンスキーさん、そしてルーウィンさん、旧友そして新しい友人の皆様、私は、杉原千畝生誕100年記念式典に、人道主義者で偉大なナチス告発者であるサイモン・ウィーゼンタールならびにサイモン・ウィーゼンタール・センターを構成する40万世帯を代表し出席させていただきましたことを感謝いたしますと同時に恐縮いたしております。そして、このように重要な国際的な催しを組織された方々にお祝い申し上げます。
この歴史的な集いは、ユダヤ人に再び“Hakarat Hatov”(善に感謝する)の任務を達成する機会、絶望的状況に希望を与えユダヤ人の命を救って下さった故杉原領事代理とパートナーのすばらしい奥様に感謝を申し上げる機会をつくって下さいました。
イスラエル建国50周年記念日に、私は光栄なことに、イスラエルの首都エルサレムで開催された集いに杉原幸子夫人と同席させていただきました。この集いには、ミラー・ヤシバ(ユダヤ教神学校)の教職員と学生たちも参加しました。ミラー・ヤシバの人たちが生き延びることができたのは、杉原さんと幸子夫人のおかげなのです。幸子夫人は故杉原氏の記憶とともに、私たちの希望と敬愛の象徴であり続けるでしょう。幸子夫人の御健勝を御祈り申し上げます。
それでは、これから22人の方々への杉原千畝生誕100年人道賞の表彰を行わせていただきたいと思います。
私のあと、ロイド・ウィリアムス氏が、22人の外交官を代表してスウェーデンのクリスター・クムーリン大使に献辞を贈ることになっていますが、その前に、22名のユダヤ人を救った外交官の紹介を手短にさせていただきます。
アラッシー・デ・カルバルホ・ロサ ロサ氏はベルリン駐在ブラジル大使補佐官でナチス・ドイツの首都であったベルリンにおいてユダヤ人救出活動を行いました。ロサ氏は「諸国民中の正義の人」賞を受賞しております。
何鳳山(ホー・フェン・シャン)(ウィーン駐在中国総領事) ホー博士はナチスの時代に最初にユダヤ人を救出した外交官の一人です。1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合後、オーストリアから逃れようとするユダヤ人にビザを発給しました。ホー博士は上官からビザの発給を停止するよう命令を受け、戒告を受けたにもかかわらず、独断で「命のビザ」を発給しました。
フランク・フォリー(ベルリン駐在英国副領事) 第二次世界大戦勃発直前のビザ発給担当として、フォリー氏は1938年から1939年までに少なくとも3000枚のビザをユダヤ人難民に発給したと歴史研究家は見ています。限られた少数のユダヤ人にのみにビザを発給するという英国の政策にもかかわらず、フォリー氏が不幸な人びとを救出するためにあらゆる方策を講じたことはよく知られています。
ゲオルギ・フェルディナンド・デュックビッツ(デンマーク・コペンハーゲン駐在ドイツ大使館貿易担当官) 第二次世界大戦中のドイツの外交官です。ナチス占領下のデンマーク政府がデンマークのユダヤ人を死の強制収容所へ追放することを計画していることを知ったデュックビッツ氏は、デンマーク政府に警告しました。そして、密かにスウェーデン首相を訪れユダヤ人が安全に非難できるよう手配しました。デンマークの地下組織は7000人以上のユダヤ人の救出活動を組織し、99%の人びとがスウェーデンに密かに逃れ救われました。第二次世界大戦後、デュックビッツ氏はデンマーク駐在大使に任命されました。
ヤン・ズヴァルテンディック 杉原ビザ受給者の信じられないほどの波乱に満ちた苦難の旅については、すでに皆様お聞きになったとおりですが、この方は、カウナス駐在オランダ名誉領事で、1940年7月初旬に「キュラソー・ビザ」を考えだし、その発給を行った人物として賞賛されています。杉原氏とともにキュラソーおよびスリナム行きのビザを発給しました。
ジョルジオ・“ホルヘ”・ペルラスカ(ハンガリー・ブダペスト駐在スペイン代理大使) スペイン内戦中、フランコ派として闘い、内戦後、スペイン国籍を与えらた人ですが、人道のために尽くしました。1944年、ハンガリーの首都ブダペストで、ペルラスカ氏は3000人ものユダヤ人をスペイン政府の隠れ家に保護しました。1994年12月、スペイン大使のブダペスト退去後、大変興味深いことに自分自身を「スペイン大使」に任命し、独断で保護通過証を発行し続けました。
ヤン・カールスキー カールスキー氏は第二次世界大戦中の偉大な英雄の一人で、つい数週間前に亡くなりになりました。カールスキー氏はナチス占領下のポーランドでのドイツの残虐行為を逐一、証言としてまとめていきました。その後、ポーランドからアメリカ合衆国へ密かに逃れ、アメリカ最高裁判所裁判官のフェリックス・フランクファーターに報告を行いました。そして、アメリカと英国で話を聞いてくれる人がいればどこへでも訪れ、数多くの講演活動を行い、ナチスのホロコーストを中止させる世論の圧力を形成しようとしましたが、成功しませんでした。
アリスティーデス・ソウサ・メンデス(フランス・ボルドー駐在ポルトガル総領事) メンデス氏はおよそ3万枚ものビザを発給しました。そのうちの1万枚はユダヤ人に、2万枚はドイツのフランス猛襲から逃れるユダヤ人以外の難民に発給されました。個人的にも数百人ものユダヤ人難民に国境の検問所を通過させスペインへ脱出させました。メンデス氏の行った活動はすべて本国政府の命令と政策に反するもので、その後、解雇され全財産を失い、1954年リスボンで貧困のうち亡くなりました。1995年11月、ようやくポルトガル政府はメンデス氏の名誉を回復し、国家の栄誉としてその人道的功績を称え特別勲章を授与しました。
アンヘル・サンズ-ブリズ(ハンガリー・ブダペスト駐在スペイン公使) 1944年夏、サンズ-ブリズ氏はスペイン政府に、ブダペストのユダヤ人保護通過証を発行する許可を求めましたが許可はおりませんでした。にもかかわらず、サンズ-ブリズ氏は自分の権限において数百枚もの保護通過証を発行しました。また、ブダペスト市内に数多くの隠れ家の設置を許可し保護しました。サンズ-ブリズ氏によって終戦までに数千人ものユダヤ人が救出されました。
ホセ・サンタエージャ(ベルリン駐在スペイン大使館農業担当官) サンタエージャ氏は、ナチス・ドイツの手からドイツ系ユダヤ人を救ったことにより、「諸国民の中の正義の人」賞を受賞しました。
チャールズ・“カール”・ルッツ(ハンガリー・ブダペスト駐在スイス領事)、ゲートルッド・ルッツ(領事夫人) ルッツ夫妻はブダペストでさまざまな活動を行っていました。ルッツ氏はブダペストのユダヤ人を救った最初の中立国の外交官です。ブダペストのユダヤ人難民に対するシュッツブリッフ(保護状)を考案しました。ルッツ氏は、8000人のハンガリー系ユダヤ人をパレスチナに移住させるために、ハンガリー政府の許可を得て保護状を8000枚発行しました。ルッツ氏はこの8000枚を個人ではなく家族ごとに発行したのです。また、ブダペストで76カ所のスイス政府の隠れ家を設置しました。1942年から43年にかけて、ルッツ夫妻は1万人とも言われるユダヤ人の子どもや若者をパレスチナへ移住させました。
ハラルド・フェラー(ブダペスト駐在スイス公使) 公使に任命された1944年当初から、フェラー博士はチャールズ・ルッツ領事と協力し、ユダヤ人を救う活動に力を尽くしました。フェラー氏は常にハンガリー政府に対し、ユダヤ人を殺害したりアウシュビッツへ送ったりするのをやめるよう圧力をかけました。終戦間近には、危険にさらされたユダヤ人を自分の公邸の地下室に匿いました。
セラハティン・ウルクーメン(ロードス島駐在トルコ総領事) 今日、ご列席されている多くの外交官の方々、ウルクーメンという名に聞き覚えがある方はいらっしゃいますか。ジュネーブに赴任されたことがおありの方はご存知かと思いますが、ウルクーメン氏の息子さんは現在、著名な国連大使を務めております。1944年7月、ドイツはロードス島のユダヤ人を駆り集め始めました。ウルクーメン氏はトルコ国籍を持ったユダヤ人やトルコと何らかの関連を持つユダヤ人のために仲裁に入り、42世帯、合計で200人以上のユダヤ人がアウシュビッツ・ビルケナウへ送られるという死の淵から救われました。ナチスは報復としてウルクーメン氏の公邸を爆撃し、妊娠中の夫人に致命傷を負わせましたが、そのときに夫人に宿っていた子どもが現在、国連に務める国際的外交官です。
アンジェロ・ロッタ(ブルガリア・ソフィア駐在バチカン外交官、ブダペスト駐在ローマ法皇大使) ロッタ神父は偽の洗礼証明書とパレスチナへの観光ビザを発行し、ブルガリア系ユダヤ人を救いました。のちに、ブダペスト駐在外交団の代表に就任し、約1万5千通の安全通行証をユダヤ人に発行しました。強制収容所や移送施設に収容されてしまったユダヤ人、また移送途中のユダヤ人にも、安全通行権と偽の洗礼証明書を何百通も発行しました。個人的にもブダペスト各地に隠れ家を設置し保護しました。
次は、1944年のブダペスト駐在のスウェーデン外交官たちです。ペール・アンガーラース・ベルグ・スウェーデン公使、カール・イヴァン・ダニエルソンの3名はスウェーデンを代表する大変著名な外交官でした。3人は1944年夏にブダペストに赴任してきたラウル・ウォーレンバーグ氏に大きな影響を受けました。ウォーレンバーグ氏は職業外交官ではなく、慈善事業にたずさわるために赴任してきたのでした。スウェーデン領事館はユダヤ人の救出に力を尽くし、3万人以上のハンガリー系ユダヤ人を助けました。ウォーレンバーグ氏は個人的にもナチスによってアウシュビッツ強制収容所やビルケナウ強制収容所に送られようとしたユダヤ人を救いました。ウォーレンバーグ氏はナチスの『最終解決』を考案したアドルフ・アイヒマンとも個人的に会っています。また、ユダヤ人のボランティアと共に死の行進を強制させられようとしていた何千人ものユダヤ人を救出しました。ブダペストの各地に多くの隠れ家を設置、保護しました。ソ連軍のブダペスト接近が迫り第二次世界大戦終結間近な時に、ウォーレンバーグ氏は、強制収容所を爆破し生存している1万7千人のユダヤ人を爆殺するよう命令を下したブダペスト市担当のナチス将校を訪れました。そして、断固とした口調で、計画を中止しなければ大戦終了後、戦犯裁判にかけると脅しまたのです。ラウル・ウォーレンバーグ氏は、大使館員の協力を得て、第二次世界大戦最後の1か月に確実に殺害されるとみなされていた約10万人のユダヤ人の命を救ったのです。しかし、ウォーレンバーグ氏がその代価として受け取ったものは何だったのでしょうか。ウォーレンバーグ氏は1945年1月17日、ブダペストを解放したソビエト軍に逮捕され消息を絶ちました。この件に関して、あと数週間でスウェーデン政府とロシア政府が最終報告を発表することになっています。ウォーレンバーグ氏は1947年にソビエトに殺害されたとも報告されていますし、戦後、大分経ってから、グーラグ(旧ソ連の強制労働収容所)で目撃したと言う人を私たちはインタビューしたこともあります。
私たちは、こうした人びとの行動の根底にある勇気をどう理解したらよいのでしょうか。こうした人びとの中にはキリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も、そして無神論者も少なからずいました。ここで、私は、いまから3千年以上も前、ファラオの支配するエジプトにおいて、ある一つの決断がその後の歴史を変えた話について考えてみたいのです。
モーゼという名の若い王子が、イスラエル人の奴隷が過酷な労働を強いられていた巨大な建設現場を見に出かけました。聖書には、モーゼはエジプト人の監督官がヘブライ人の奴隷を鞭打つのを見たと書かれています。そして、聖書は続けて、モーゼは周りを見渡し「一人の人間も見えなかった」と語ったあと、エジプト人の監督官をうち倒し、一人の無力な奴隷を救ったと書いています。この聖書の「一人の人間も見えなかった」というのはどういう意味なのでしょうか。ピラミッドのような巨大な建造物の建設現場には何千人もの奴隷、そして何百人もの奴隷所有者がいたはずです。
ユダヤ聖典の最高権威であるラシ師が、この件について、鋭い考察を加えています。 “BIMKOME SHEH'AIN ISHE, HISHTADAIL LEE'YOTE ISH”――「モーゼは一人ではなかったが、誰一人としてモーゼが目にしたことを見たものはいなかった」
古代エジプトにおいて、ヘブライ人を鞭打つという行為は1日に何千回も繰り返し行われていたことであり、誰もおどろかないし、ましてや抗議などしませんでした。奴隷たちですら、すべての希望を失っていたのです。
“BIMKOME SHEH'AIN ISHE, HISHTADAIL LEE'YOTE ISH”――一人の人間もいないと思われる中にあって、すべての希望を失った無力な受難者の価値を見出す勇気を持つ者こそ真の人格者、真の指導者でなのです。それゆえにモーゼはその偉大さと指導力において別格の存在となったのです。そして、聖書に描かれたのと同じように、この22人の外交官たちは漆黒の闇の時代にあって、つまり世界中がユダヤ人に背を向け、ローマ法王や他の宗教指導者たちが大量虐殺を行っているナチスに目を閉じ、そして犠牲者の大半が未来への希望をすべて失っていたときに、真の人間らしさを示してくれたのです。
「一人の人間もいない」と思われたそのとき、その場所で、杉原氏を含む23名がユダヤ人のために立ち上がり、人の道とは何かを身をもって示したのです。これらの外交官の名前は永遠に私たちの胸に刻まれ、杉原千畝人道賞によってこれから永遠に日本の人びとに賞賛されることでしょう。
ロイド・ウィリアムズ
ハーレム商工会議所会頭

【略歴】 マンハッタンで最も古いビジネス・市民団体の代表として、マンハッタン北部の商業、経済開発と復興、住民生活向上に取り組む。LMRプロダクション株式会社会長、ハーレム・ウィーク株式会社会長、米国黒人観光旅行協会副会長、ハーレム住宅開発会社社長、ハーレム観光協会副会長、全国黒人ビジネス評議会執行委員、ニューヨーク市経済開発社理事などを務める。多くの大学で歴史、ビジネス、経済などを教えている。
今回の催しは啓発的で歴史的なプログラムといえます。エイブラハム・クーパー師に続き、日本人でもない、ユダヤ人でもない私が、友人たちとこうして時間を共にして、第二次世界大戦からその後まで、人道問題において非常に重要な役割を果たされた世界の人々を認めることは、とても相応しいことではないかと思います。私は上田さんととても親しい関係にあるため、本日ここにいます。まず、上田さんのことを少し話させてください。私が2、3日前に数千マイル離れた所からやってまいりました。そして数分話しをした後、帰国の途につきます。これは、上田さんおよびティグレの優秀な皆様の要請だからできたことです。なぜなら、彼らは私にとって特別な意味があるからです。
歴史の学生として、また歴史の教師として、「杉原」という名前は私の頭の中に長年ずっとありました。私は第二次世界大戦やそれに関連する民族対立や国際分裂の研究に多くの時間を費やしてきました。今日ここにいられることをとても喜んでいます。この部屋には、様々な大陸から代表が出席されています。アジア人、ヨーロッパ人、そして、私が代表するアフリカおよびカリブ人。私はティグレのよき友人であるチャールズ・B・ランゲル下院議員からの挨拶を携えてきました。日本人の利益、ユダヤ人の利益、そして当然ながらカリブ系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人コミュニティの利益にとって重要な諸課題を、ひとつにまとめ、おし進めていく中心的な存在です。
私は日本にいる仲間と2〜3年間、いろいろな課題に取り組みました。しかし、それだけではありません。数え切れない日々を毎日朝早くから、アフリカ系アメリカ人、カリブ系アメリカ人、ユダヤ人関係者について議論しあった友人がいます。ユダヤ人コミュニティ関係協議会のマイケル・ミラー氏です。私たちにはアフリカ系アメリカ人とユダヤ人のリーダーからなるグループがあり、定期的に集まって、世界の、とりわけ私たちの住むニューヨーク、ニュージャージー、コネティカット地域の様々な問題について議論しています。そのやりとりから、私たちにとってかなり重要な人物となる阿部勝弥氏を知ることができました。日本の文化・教育・ビジネス界を代表する阿部氏は、私たちのコミュニティと日本との間に共通の関係を確立させようと努力してこられました。そして、今日、この場にいることができてうれしいです。
昨夜、私はサバイバーであるマンスキー氏ご夫妻と短時間ですが話しをいたしました。短い会話でしたが、それが私にとって意味があることを、ご夫妻が理解してくださったかどうかは分かりません。マンスキー氏は、家族のことや体験されたことを話してくださいました。彼らにとって杉原氏は何を意味したのか、短期間日本に住んだ経験、それからアメリカに渡ったこと、そこでの扱いについて話を聞きました。マンスキー氏が1941年から今日ここに至るまで、どれほどの距離を旅してこられたのか、皆様、想像してみてください。同じくサバイバーであるネイサン・ルーイン氏。先ほどの彼のお話はとても意味深いものがありました。
主催者の皆様、このように充実した意義ある式典を開かれ、心よりお喜び申しあげます。スギハラ作文コンテストの入賞者をお迎えできたことは重要です。私はすでに3人の優れた入賞者にお会いしました。もう一度立ってみてください。よろしければ、3人の方、立ってみてください。彼らは東海岸から西海岸と、それぞれアメリカの異なる地域からやってきました。作文を書いて、賞をもらう人はたくさんいます。しかし、書いていることがその個人の質を反映していないことが時々あります。短時間同席しただけですが、若い彼らの礼儀正しさと作文の内容は、まさに首尾一貫していました。それをとても誇りに思います。
また、私の優れた仲間であり、次のプログラムで紹介されるカールとフェイ・ロドニー氏についても一言申しあげたいと思います。彼らは有名な雑誌『カリブニュース』を出しています。私たちは、上田氏と阿部氏、そしてお二人の仲間と、この数年おつきあいをしてきました。そして、カリブ海でロドニー氏が主催した国際ビジネス会議にお招きしました。アジア、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、そしてアメリカ合衆国の人々が一堂に会し、国際的なビジネスについて話し合いました。二人がここに招待されたことをうれしく思います。カールは商工会議所のメンバーです。ロドニー氏と一緒に日本に来たのはこれが二度目です。二人はいつもスケジュールがつまっていて忙しくしています。その二人がここにいるという事は、日本の友人とのパートナーシップを非常に大切にしていることを表わしていますが、それ以上に、杉原氏が遺されたものが偉大だからです。来てくださり大変ありがとうございます。
100年が経ちました。そして私たちは新たな100年に入ろうとしています。杉原氏の生誕100年ということだけではなく、これから次の100年、200年が私たちにとって重要です。私たちの目前にある本当の問題は、杉原氏が立ち向かったもの、なしたこと、そして今、この世界で一部の人々が忘れようとしている時代、わずか60年ほど前のことを思い出すことになるでしょう。
最後に、アフリカ系アメリカ人として、私の家族はカリブ海出身ですが、アフリカ系アメリカ人として、つながりを理解しているから、私はここにきました。ヨーロッパのユダヤ人に起きたこと、第二次世界大戦中に日系アメリカ人に起きたこと、そしてアメリカにいる私たち民族に過去そしていま起きていることの間のつながりです。つながりがあります。そのつながりを活用する唯一の方法はコミュニケーションです。コミュニケーションをすることで、私たちは後に続く人たちのために、より良い世界を作ることができます。
最後に一言申しあげて終わります。杉原氏をほんとうに理解したければ、杉原夫人をご覧になってはいかがでしょうか。彼女を見て、彼女がスピーチで何をどのように話したのかを聞き、彼女の家族を見れば、杉原氏が理解できるでしょう。杉原夫人が言われた短かい言葉は大変な重みをもっています。実際には短時間で言い尽くせないほど意味深いことを話されました。彼女の顔を見て、杉原氏の人となりがわかりました。杉原夫人およびご家族の皆様、ここに同席させていただけたことを光栄に思っています。そして、杉原氏、杉原夫人、ご家族の皆様の犠牲に対して深く感謝申しあげます。ありがとうございました。
クリスター・クムリーン
駐日スウェーデン大使

【略歴】 1938年生まれ。1962年ストックホルム大学法学部卒業後、外務省入省。政治担当。国連スウェーデン政府代表部公使、ブラジル大使、外務省報道官、ギリシア大使等を歴任。1997年以来、現職。
杉原夫人、明石委員長、そしてクーパー様。杉原千畝生誕100年の記念式典の場にいることは私にとって言い尽くせない大きな誇りです。私にとって名誉なことはそれだけではありません。50〜60年前にヨーロッパ全土を襲った邪悪な力に対して、果敢に立ち向かった杉原氏のような外交官を出した国々から本日ここに集まられた外交官の皆様を代表してこの場に立つことも、私にとって非常に名誉なことです。
今日この式典で顕彰された人々の幾人かはスウェーデン国民でした。彼らはすべて、ブタペストのスウェーデン大使館でラウル・ウォーレンバーグ指揮のもとに活躍をしました。表彰者の一人のペール・アンガー氏は今も健在です。昨日彼と話しをしましたが、この素晴らしい賞をいただくことに感謝をしている、ぜひその気持ち伝えてほしいと言われました。アンガー氏はまた、ウォーレンバーグ氏のその後を熱心に追跡してきました。クーパー師が言われたように、あと2〜3週間すれば、正確には1月12日には、スウェーデンとロシアの間で作られた公式委員会がウォーレンバーグ氏の最期に関する調査結果を報告することになっています。
杉原氏をはじめ今日ここで表彰される外交官の方々がみせた勇気は、45年から50年前に遡ります。しかし、当然ながら、邪悪な力は、ある一定の期間だけ排除したり封じこめたらよいというものではありません。それはいつでもどこかにいます。常にそうした邪悪な力と闘わなくてはなりません。今日ここで表彰された人々を、私たちは将来の模範としなくてはなりません。この時代を私たちは絶対に忘れてはなりません。
私の政府は、昨年率先して、当時のヨーロッパのホロコーストを心に刻むための会議を開きました。この会議は、排外主義、不寛容、迫害に立ち向かう会議として、来年も引き続き開かれます。私は、これは今日でも同じように重要であると考えます。私たちが歴史から学べば、若い世代の人々は、杉原氏が活躍したあの時代に起きたことを将来必ず思い出してくれるでしょう。
これをもって、この記念事業を主催された皆様へのお礼の言葉にかえさせていただきます。そして、偉大な日本人であり外交官であり英雄であった杉原氏の、人間としての真の勇気をたたえるこの素晴らしい取り組みを主催された皆様に敬意を表します。ありがとうございました。
上田 卓三(うえだ・たくみ)
杉原千畝生誕100年記念事業委員会委員長代理

【略歴】 ティグレ会長。1938年生まれ。1973年、大阪府中小企業連合会を結成し、1996年にティグレに改称。1976年、衆議院議員に初当選。以来、6期連続当選。1994年、部落解放同盟書記長、1996年に同委員長を各一期務める。
海外ゲストの皆さん、そして会場の皆さんのあたたかいご声援によりまして、この記念式典を滞りなく終了することができました。
およそ1年前に、杉原千畝さんの生誕100年に当たり、杉原さんを称え、そして杉原さんと同じようにユダヤ人の命を救った世界各国の外交官22人、奥さんを含めて24人の方々を顕彰しようと考え、この記念式典を計画させていただきました。当初、果たしてこの取り組みが成功するものかどうか、自信がありませんでした。しかし、「なせば、なる」というのが私の哲学でございまして、とにかく行動すれば何かが生まれてくるという気持ちでここまでやってまいりました。
実は、これまで外務省は杉原さんの件で正式に謝罪をしたことはなかったのですが、この10月、ついに河野外務大臣が杉原幸子夫人に謝罪の言葉を述べました。ただ、森総理からの言葉はまだありませんから、これで外務省が内閣を代表して謝ったということになるのか定かではありません。
残念ながら、これまでの政府のやり方を見ていますと、やるべきことはやらないで、やらなくていいことをやるという面があったと言わざるをえません。政府は国民から言われないとやらないのでは、と疑ってしまいます。私は、国会議員としては現役を退きましたが、社会運動家としては社会や政治のいたらない点に気づいたときはがんばって行動を起こすつもりですので、今後とも皆様のご協力を賜りたいと存じます。
国際社会では、日本人は金儲けはうまいけど、社会のために尽くすとか、平和、人権、人道のために行動するのは苦手、と見る人が多いのも事実でしょう。日本では、そういう問題にかかわるような人は奇特な人、好き者と見られがちです。しかし、人間、300年、400年も生きられるはずもないし、お金貯めてそれをこの世に残して死んでも仕方ありません。むしろ、残したらロクなことがないことも多いのです。立派な人もいますが、往々にして、親の財産を受け継いだばかりにバカなことをしてしまう人は、政治家を含めて少なくありません。
こんなことを言うと、上田がまたバカなことを大阪で言っていると、森総理をはじめ東京の政治家の皆さんは思うかもしれません。ただ、ぜひ言っておきたいことは、本当は、日本政府自身がこういう行事をすべきだったということなのです。しかし、そうでない以上、気づいた者がやるということが一番いいんじゃないかと思っております。
この国際的な記念式典に、日程の都合や海外の行事の関係で大阪府知事や大阪市長が来ていただけなかったことは残念です。いろいろな事情や立場がありますから来ることができなかった人を批判する必要はないと思いますが、今日集まった人は本物の人びとだと思います。
この記念式典を終え、近く記念事業委員会は解散することになります。しかしながら、今後とも人権や平和のために頑張ってる多くの方々の協力を得ながら、杉原さんの遺志と偉業を受け継いでいく事業を広げていきたいと思います。商売のことばかり考えているエコノミック・アニマルではなく、世界平和や人権・人道のために尽くしていると見てもらえるような日本をつくりあげていかなければなりません。
本日はまことにありがとうございました。
マイケル・ミラー
ユダヤ人地域関係協議会副理事長

【略歴】 ニューヨーク出身。ケンタッキー州フォート・ノックスにおいて、陸軍付きのユダヤ教牧師を務める。その後、マサチューセッツ州スプリング・フィールドのユダヤ教会で指導にあたり、ユダヤ人コミュニティのために積極的な活動を行う。様々な評議会や委員会で役職を務め、国内外の問題などに関して幅広くアドバイスを行っている。
ユダヤの慣例では、主催者にまず敬意と尊重の意を捧げてから話を始めるのが礼儀です。そのため、私の組織であるニューヨーク・ユダヤ人地域関係協議会を代表して、明石委員長、上田委員長代理、そしてこの歴史的行事の主催者の皆様に心よりお礼を申しあげます。私たちの組織は、ニューヨーク地域にある60以上のユダヤ人組織、そして約150万人のユダヤ人住民の資源の中心であり、それらをコーディネートするセンターであります。さらに、妻フィリスと私は、ここ大阪で受けてきた暖かいおもてなしに深く感謝しています。ここにお招きいただき光栄です。ありがとうございました。
200年前、私たちの賢人ラビ、私たちの偉大な先生たちはこう書きました。「一人の命を救った人は、全世界を救ったことになる」
今夜私たちは一人の男性、杉原千畝氏に賞賛の言葉を呈するために集まりました。私たちのラビの教えによれば、一人の命、一つの世界だけではなく、6000の世界を救った人です。杉原氏にとっては見知らぬ、決して会ったことのない、個人的な生活についても知らない6000人でした。彼らは、杉原氏とは異なる人種で、独特の宗教を信仰し、さまざまな言葉を話しました。強い人もいれば弱い人もいた、背の高い人もいれば低い人もいた、学者もいれば労働者もいた、聖人もいれば普通の人々もいた、そのような6000人でした。
杉原千畝は6000の世界を救いました。たまたまユダヤ人として生まれた男性、女性、子どもの希望と夢をつなぎました。ノーベル平和賞受賞者のエリー・ウィーゼルが「夜の王国」と呼んだ時代の残酷な統治者により、恐ろしい死か、あるいは何か別の結末に運命づけられた人々の希望と夢を広げたのです。苦痛と絶滅に覆われた環境の中、日本の外交官・杉原千畝氏は、わずかな慰めどころではなく、復活、尊厳、人道、正義をもたらしました。
私はホロコーストのサバイバーではありません。私はアメリカのニューヨークで戦後1949年に生まれました。両親はアメリカで生まれています。母の両親もアメリカで生まれました。父の両親は1900年頃アメリカに渡ってきました。私の家族には、ホロコーストの時代に殺された者は誰もいません。ただ一人として。
しかし、ユダヤ人として、私は同胞を失ったことの痛みを犠牲者一人ひとりに感じます。ナチスに殺された600万人のユダヤ人は兄弟姉妹であり、叔父であり叔母であり、従兄妹です。情け容赦なく命を絶たれた150万人の子どもたち、成長するチャンスを奪われた子どもたちは、まさに私の一部であります。
私は杉原氏に会ったことはありません。しかし彼が救った世界のいくつかと出会ってきました。
ほんの1ヶ月前まで、私は、高校から大学まで一緒だった友人、これまで16年間、ユダヤ教の安息日である土曜日になれば一緒にユダヤ法を勉強してきた友人のイラ・ジャスコル氏が、ザップス・ジャスコル氏の息子であることをまったく知りませんでした。1940年、タルムード学院の学生であった故ザップス・ジャスコル氏は、ポーランドからカウナス、コブノ、そしてリトアニアへと進みました。コブノで、彼は杉原氏から命の贈り物であるビザをもらいました(そのコピーを私は今回もってきました)。ザップス・ジャスコル氏は次に神戸へ行って、それからアメリカに渡りました。彼は結婚して、7人の子どもをもうけました。その一人が私の友人イラです。イラはホロコーストのサバイバーの娘と結婚し、4人の子どもと1人の孫、イスラエルで生まれた孫をもっています。
そして、また別の世界があります。私たちの一番上の娘はベンジャミン・コーンという青年と交際しています。素晴らしいユダヤ人家庭で育った立派な青年です。1週間前、私は、ベンの祖父のポーランド系ユダヤ人、チャスキイル・メイヤ・コーン氏はリトアニア、コブノで杉原ビザをもらっていたことを知りました。
祖父、父、息子、孫。これらは杉原千畝氏が救った6000の世界のわずか二つにしかすぎません。二つの世界は私に、妻に、家族に深いところで関わっています。
杉原様ご家族に私は何が言えるでしょうか?感謝の言葉でしょうか?当然ながらそうです。私だけではなく、ニューヨークの、そして世界中のユダヤ人から。しかし、それで本当に十分でしょうか。確かに、杉原千畝氏に対する私たちの永遠の感謝を深く表わす表現があります。
私は乾杯の音頭をとるように言われました。ユダヤの習慣では、グラスを上げるとき、祝辞を捧げます。幸子夫人のご同席をいただいた今夜、杉原千畝氏が貫いた高貴な信念を祝って乾杯します。命に(L'Chaim)。
ニコラス・シェール
杉原千畝作文コンテスト入賞者

【略歴】 米国ニューヨーク州内の学校に通う17歳の高校生(男性)。2000年の杉原千畝作文コンテストニューヨーク地区入賞者。
来賓の皆様と外交官の皆様にご挨拶を申し上げたいと思います。本日、私たちは、正しいことを行った偉大な人物に敬意を表すためにここに集まりました。
私の名前はニコラス・シェールといいます。年は16歳で、高校生です。ボストン出身のアリソン・ヴォナ、サンフランシスコ出身のエミール・ブロックと共に作文コンテストに参加しました。このコンテストの目的は、私たちが正しいことを行った時の出来事を、杉原さんの取った行動と関連づけて作文に書くことでした。
私は、同級生がからかわれた時の話を作文に書きました。皮肉にも、同級生をからかっていたのは私の友達でした。友達は、非常に悪質な人種に関する冗談を言って侮辱したのです。はじめは、私も友達と一緒になって笑っていましたが、すぐに、この同級生がどれだけ傷ついたのかということに気づきました。この時、不正を許してはならないと感じ、同級生を助けるために、杉原さんのようになすべきことをしようと行動をおこしたのです。
私は同級生のために行動をおこしました。友達に、このような冗談はおかしくもなんともなく、人を傷つけるものであるので、もう言わないように言ったのです。友達は、冗談を言うのをやめることに同意してくれましたが、私は友情を犠牲にしなければなりませんでした。正しいことを行ったために友達を失ってしまったのです。杉原千畝さんは、正しいことを行ったために仕事を失い、自分の将来を危険にさらしました。私のとった行動と杉原さんのとった行動を直接比較することはできないかもしれませんが、本質的には、私たちのとった行動はとても似ています。正しいことを行ったからといって何も得るものがなく、すべてを失ってしまうかもしれなかったのです。しかし、私も杉原さんも正しいことを行いました。杉原さんの言葉を借りて言うならば、人道を何よりも優先したのです。
私たちのとった行動を比較する時に、行動の重要度を見るのではなく、動機について考えていただきたいのです。よく考えれば、杉原さんが何も得るものがなかったということがおわかりになると思います。つまり、杉原さんは、心から、純粋な気持ちでこのような行動を取ったのです。だからこそ、杉原さんの生誕100周年に杉原さんを顕彰するために、私たちはここに集まっているのです。
杉原さんの志は、反差別連盟の日々の活動の中にも生きています。反差別連盟は、嫌悪、人種主義、偏見と闘っている素晴らしい組織ですが、ユダヤ人に対する中傷をやめさせ、同じような立場にあるすべての人びとに正義をもたらすことを目的として設立されました。現在も、教育や啓発活動を通じてあらゆる不正義をなくすために闘っています。ですから、杉原さんと22人の勇気ある外交官を顕彰するに際して、反差別連盟の努力もともに称えたいと思います。
 私、アリソン、エミールの三名から記念事業委員の皆様に、とくに、明石康委員長と上田卓三委員長代理に、本日の式典を実現していただいたことにお礼を申し上げたいと思います。
 最後に、杉原さん、杉原さんのご家族、22人の外交官の皆様とそのご家族、そして杉原さんのように人道を何よりも優先させるすべての方々に敬意を表したいと思います。
カール・ロドニー
カリブニュース社最高経営責任者

【略歴】 米国の大手生命保険会社での管理職を経て、18年前に同社を設立。カリブ地域とカリブ系アメリカ人に関するタイムリーで正確な情報を発信。カリブ系アメリカ人コミュニティの重要性や社会への貢献を宣伝し、他のコミュニティとの掛け橋になる事を目指している。ニューヨーク・ユナイテッド・ウエイ理事、カリブ文化センター顧問、アクセント・トラベル&ツアーズ会長兼最高経営責任者などを務める。
会場の皆様、私は作文コンテスト入賞者に祝辞を述べるという簡単な任務を仰せつかりました。敬意を表すべき過去の功績についてのお話しが続きましたが、作文コンテスト入賞者は、その功績の継承を私たちが託していかなければならない方々なのです。したがいまして、私の任務はかなり簡単なことです。私は祝辞を述べるだけではなく、入賞者の皆さんに杉原さんのしたことが、いまの私たちにどんな意味があるのか、また将来においてどんな意味があるのかを知ってもらうことです。
実行委員会の皆様、グローバル化や人道をテーマに語り合うことのできた意義深い式典の開催に御礼申し上げます。もし、私たちが人道的立場に立って多くの命を救った杉原氏のような精神をもって共生できなければ、彼の偉業は無駄になってしまいます。ティグレの皆様、体験を語って下さいましたビザ受給者の皆様、お話しをして下さったユダヤ人団体の代表の方々、そしてもちろん日本の皆様に感謝の意を表します。体験を語ってくださった皆様、式典開催に向けて精力的な活動をされてきた皆様に御礼申し上げます。
私たちは、本式典において皆様方の謝辞の気持ちと謝辞に至るまでの経過を共有することができました。そして、本日の式典の開催が様々な方々の努力と献身の上に成り立っていることを理解しました。ご主人とともにさまざまな苦難に耐えてこられた杉原夫人に御礼申し上げます。心から感謝申し上げます。
そして奨学金を受賞された方々おめでとうございます。杉原領事を称えるこの式典の目的である「正しいことを行う」という行動についての作文を書かれたことは大変、素晴らしいことです。
この作文コンテストはホロコースト歴史博物館の後援により1995年に始められました。また、ニューヨーク市教育委員会の協力も得ています。このコンテストでは、公立学校の10年から12年生を対象に杉原氏が直面した苦悩に関する作文を募集しています。杉原氏にとって、人道こそなによりも優先されなければならなかったのです。私たちにとってもそれは同じであり、作文コンテストの入賞者を激励するのもそんな思いがあるからなのです。しかし、入賞者がまた試されてもいるのです。作文に書かれた内容を文章の中だけのものとせず、あなた方の人生に生かして下さい。そして仲間を増やして下さい。未来はあなた方のものです。この世界が全ての人々にとってより良い世界になるよう、ここでの経験を生かして下さい。
入賞者は3名です。アリソン・ヴォナ、18歳。マサチューセツ在住でロードアイランド大学医学部準備教育課程学生。エミール・ブロック、18歳。カリフォルニア州在住でカリフォルニア州内の大学に在学中です。ニコラス・シェール、17歳。ニューヨーク市在住の高校生です。祝辞を述べるよう仰せつかった際、私は、その前に入賞者と個人的に話をした方が良いのかどうか迷いましたが、結局話をしないことにしました。
しかし、偶然にも彼らと昼食の席が一緒になりました。この3人は利発なだけではありません。一緒に話をしていると、ほっとした気持ちにさせてくれるのです。3人はもちろん問題児ではありませんし、人との接し方も心得ており、柔軟性もあります。快活な彼らの姿を見て私もロイド・ウィリアムスも大変うれしくなりました。この3人は何か意義のある貢献をしてくれることでしょう。
未来へ前進するために本日の式典に参加した3名に御祝いの言葉を述べると同時に私たちの思いを託します。今度はあなた方が杉原氏のようにより良い世界を築く番です。
ロバート・ルーダン
駐大阪・神戸アメリカ合衆国総領事

【略歴】 1980年、国務省入省。国務省日本部経済課長、駐中国米国大使館経済担当公使などを歴任。1999年以来、現職。
まずはじめに、明石委員長ならびに記念事業委員会の皆さま、本日ご臨席を賜りました外交団の皆さまに対しまして、心より御礼を申し上げます。また、この素晴らしい杉原千畝作文コンテストに優勝をされた3人の学生の皆さんにお祝いの言葉を贈ります。
第二次大戦を振り返りますと、杉原氏は重要な教訓を残しました。あの、戦争の時でも、杉原氏が人道的な精神を忘れなかったことは大変すばらしいことです。我々も日常生活においても、人道精神を忘れるべきではないと思います。
いま、この地域は平和な時代ですが、我々は戦争の歴史と残酷さは認めつつ、杉原氏の行動を通して、人道性の大切さを再確認することができます。私にとって今日の記念式の意義はここにあります。
杉原ビザの受給者の多くは、日本を経てアメリカにわたりました。アメリカの兵士たちは、第二次大戦の時にヨーロッパを解放し、この地域、東アジア地域にも自由をもたらしました。
いつの世でも人を感動させるのは、高貴な精神に裏付けられた勇気ある行動です。これは、人類の21世紀の平和につながります。その意味で、杉原氏の功績がもうすぐ始まる新しい世紀にも長く伝えられることを私は強く願っております。
本日は光栄にもお招きいただきありがとうございました。大阪は素晴らしい町です。そして、本記念事業委員会は本当に素晴らしい取り組みをしていただきました。どうもありがとうございます。